↑『うさぎや』の温かいうちに個別に包装される新鮮な『どらやき』『どらやき』といえば
『うさぎや』 。
『うさぎや』といえば
上野(上野1-10-10 水休・9時〜8時)。
『黒門町のうさぎや』として古くから親しまれています。
創業は大正2年(1913年)初代の谷口喜作氏から現在は4代目(谷口宏輔氏)、
92年の歴史があります。
和菓子屋さんは老舗というと100年以上は当り前、の世界だから
その中では新しい? でも朝生系としては古いのか・・。
↑クリックね。うさぎや、の文字は大正期の俳人によるものらしい。
『うさぎや』は都内にそれぞれ
独立したお店が3軒あります。
『日本橋のうさぎや』は初代喜作さんの三男の豊三氏が始めたお店、
<(
注)初稿で“弟さん”と書いていますが、2代目喜作氏の弟さん>
『阿佐ヶ谷のうさぎや』は初代喜作さんの娘さんが始めたお店、
<(
注)初稿で“お孫さん”と書いていますが、誤りでした、すみません>
それぞれ親戚関係になりますね。
作っているお菓子の種類もどらやき、うさぎ饅頭、最中を初めとして似ています。
しかも新鮮な
『どらやき』のクオリティの高さは「DNA」の力か、と思わせます。
でも何故か
『うさぎやのどら焼き』と紹介されるのは黒門町(上野)ばかり。
今、手元に10冊の和菓子関係の本があるけど
9冊は『黒門町』、4冊が『阿佐ヶ谷』について書かれています。
『日本橋』が個人的には『うさぎや』との出会いで
古い店舗も大好きだったし。材料の点からも
「うさぎやは日本橋から書いたる!」と思ってたけど・・。
↑とろりとした十勝産小豆の粒々あん。新鮮で溢れるばかりに皮に挟まれている。だが、
8月18日の『亀十』に続いてまたまた
偉大なる「DNA」の力!か
母が上野みやげにたんまり
『うさぎやのどらやき』様を買ってきてくれた。
7月24日から29日の
『上野の豆大福』シリーズの取材?で
前回は定番の黒門町を通り過ぎたのが心残りだったので、やれ嬉し。
―まったく
個人的な話で恐縮ですが
何故、やたら母のみやげに
『どら焼き』が多いのか。
生前の父の大好物が『どら焼き』。
贅沢の出来ない昔のひとなので
『文明堂の三笠山』が「少し特別なおやつ」。
↓クリックね
↑文明堂「三笠山」136円。口がしっかり閉じているものが「三笠山」です今、お供えする為にせっせと母はあれこれ
『どら焼き』を買ってくる。
「うひゃひゃ、父は私の胃袋を借りてる」、と言い訳しつつ
嬉々として齧りついてるんで、
親孝行だか不幸だかわかんないけど。
ありがた〜くお下がりを頂戴してます。
ともかく、もうおいしいからいいや!
『黒門町のどらやき』から書いちゃおう。
なんて義理よわい奴。ないけど義理。
↓クリックしてね
↑皮が開いているのが『どらやき』『うさぎや』は元々は銀行員で「卯年生まれ」の初代喜作さんが
腕の良い職人さんと出会って始めた店。
初代が当時は珍しい
「
庶民価格で良質」の『喜作最中』を考案しヒット(今もあります)
二代目が
現在の
焼きたての皮にあんを挟む『どらやき』を売り出した、と思われます。
今のご主人の宏輔氏も
「うちが最初といわれ、
昭和三年にはすでにあったと聞いて・・」
とおっしゃっています。(2001年4月の『dancyu』より)
ただ
・・『「うさぎや」考案説もあるが、店主は「どこまでが独自かはわからず、
元祖と宣伝するつもりはない」』(
『三笠VSどら焼き どっちが主流?−asahi.com』 から)
と奥ゆかしく、そんなもん売りにしなくても平気、の実力をキープしてます。
さてと
それではまずはひと口「いただきま〜す」
・・・・・
と、この先あまりに長いので続きは明日です。
ちょっと予告すると
こういう話もこぼれたり↓
posted by あんころりん at 18:49| 東京 🌁|
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